約10年ぶりの再読。今年はちょうど伊藤計劃生誕50周年らしく、勝手に再読の波動を感じている。
SFを全然読み慣れてなかった当時は「ほーん」くらいの感想だったけど、今読むと「ほほーん」だった。というのも、パラニュークの「ファイトクラブ」「ララバイ」の影響はしっかり感じ取れたし、当時はよくわからなかった軍事や政治の描写もそこそこわかるようになっていた。成長を感じる。
クラヴィスのルツィアへの執着や母親の死を選択した葛藤はやっぱりよくわからなかった。感情をマスクするテクノロジーによって精神的に成熟できない青年の葛藤。軍人なのに繊細でくよくよ考えてるアンバランスさを描きたかったんだろうなと想像するけど、それだけに全く共感できないし、これからもよくわからないんだろうなあと思う。
それにしてもここまでディティールに凝ったものを10日で書いたというのは驚いた。メタルギアソリッドのファンだからもともと軍事系の知識が豊富だとしてもすごい。巻末の円城塔との対談で「ディティールを異様に細かくしていけば普通のことを書いてもSFになる」というギブスンの言葉には感心。というか、最後の対談が一番面白かった。
たしかに円城塔と伊藤計劃って作風が真逆なんだよな。円城塔はディティールそっちのけで抽象化された構造に着目してる作風。そりゃ途中から引き継いだ屍者の帝国が読みづらいわけだ。昔挫折したので近いうちに再挑戦したい。
当時のインタビューやSFマガジンを読むと「伊藤計劃以後」とやたら言われてたようだけど、どうも自分の中では伊藤計劃のどこが画期的だったのか、何が時代の転換点だったのかよくわかっていない。誰か解説してほしい。
ゲームやアニメの影響を色濃く受けたSF作品というくくりだとゼロ年代がそうだったように思うし、翻訳っぽい文体もそれほど珍しいものではなかったんじゃないかと思う。
虐殺器官の、テクノロジーによる感情や痛みの操作については、作者の伊藤計劃の闘病生活と重ね合わせることで物語のリアリティや迫真感が増しているなあと思う。
自分の中での伊藤計劃という作家は、作家の闘病人生が紡ぎ出す物語と密接に関係しているためにそれ自体が物語化していて、作品ごとに自分の中での問いを進化・深化させていく、というところに凄みがあったとは思っている。それだけに早逝したのは本当に惜しい。
あと生前のブログもたまに読んでいるが文章力がすごい。こんな批評が書けるオタクになってみたかった。文章力ってどうやったら上がるんだろうなあ。
ハーモニーも再読予定なので楽しみ。