テッド・チャン『あなたの人生の物語』収録の短編。 ルッキズムによる格差是正のため、「カリー」という人間の顔の"美しさ"を感じる脳の部分だけを無効化する(顔の識別は可能)装置が開発された社会の話。インタビュー形式のドキュメンタリーになっている。 物語の終盤で、化粧品会社のカリー導入反対の演説映像を、見た人に最も影響を与えるように最適化することでカリー導入を免れる、という展開になる。広告業界こわい。
『あなたの人生の物語』読書会で「顔の美醜について」の話題になり、カリーを付けたいかどうかで白熱した議論になった。 自分としてはカリーを付けたいと思う派なのだが、投票したところ少数派だった。 付けたくない派の意見は
- 美しさも才能の一つであり、その否定になってしまう
- 顔を隠すに等しく、それはイスラム圏のような保守的な社会と何ら変わらない
- 顔以外にも声などで優劣は存在するので格差是正の本質的解決にならない
- 全員がつけなければ意味がないという前提の実現の難しさ
などなど。それぞれ理にかなっていてなるほどと思う。
いろいろ話を聞いていて思ったのは、「個人」と「社会」で切り分けが必要ということ。「自分が他人を見た目で判断したくないのか」、それとも「他人から自分が見た目で判断されたくないのか」 カリーを付けたいのは自分だけなのか、それとも社会全体に強制したいのか。
まあ、この作品の本来の文脈でいえば社会を対象にしているのだけど。ルッキズムによる格差を是正するために強制的に導入する話なので。そこをはっきりさせずに「つけたいか」「つけたくないか」で投票したのは自分の落ち度だったなと思う。
それはさておき、他人から見た目で判断されるのが嫌で、社会にそれを強制しようとするとそれは大変だと思うし、それこそ顔以外にも優劣は存在するので意味がないと感じる。 結局のところ、格差の是正のためには強制的なテクノロジーの導入ではなく、道徳や社会規範を浸透させるしかないのではなかろうか。それがチャンがこの短編で伝えたかったことのように思う。 余談だが、テッドチャンはこの短編以外でもテクノロジーの導入に警鐘を鳴らす作品が結構ある。「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」とか。
で、ぼくの場合は完全に個人の問題でカリーを付けたい。周囲がつけるかはどうでもいい。 顔で判断されるのはどうぞご自由に。でも自分は他人のことを見た目で判断したくないし、他人と関わる上で見た目の良し悪しは関係ないと感じるので、顔の美醜はノイズに過ぎない。 アイドルを応援するみたいな趣味もないから、顔の美醜がわからなくなるデメリットがほとんどないのも要因かも。
カリーを付けたい最大の理由は、日常生活で不意に自分の心を動かされたくないから、という自己防衛的な理由に尽きる。 都会の町を歩いていると、ふと目に入った広告などでドキッとすることがたまにある。それがいかにも感情操作されている感じがして苦手だ。 XをやめてBlueskyに来たのも、自分の求めていない刺激的な情報で心を乱されるのが嫌だったから。 いつも心は穏やかでありたい。
ところで、最近の子供は幼い時からinstagramやtiktokに触れているけれど、刺激が強すぎて精神面の生育によろしくないと思う。大人ですら刺激が強すぎると感じるのだから子供への影響の大きさは計り知れない。
心を乱されたくないという文脈ではもはや、顔がどうこうというより広告その他諸々の人為的な刺激を消す装置が欲しい。目の前を極限まで無味乾燥な情景に近づけるみたいな。そういう観境を好きな時に作り出せる装置があったらなー。
それじゃ本物の世界を見ていないのでは?という意見があるだろうけど、どうせこの先そういう未来になっていくと確信している。VR・ARなんてもろにそうだし。そもそも、みんなが現実を同じ”本物の世界”として認識しているといえるのだろうか?
それぞれが見たいように世界を見ればいいじゃんね。もちろん、それで人に迷惑がかかるのはごめんだけど。 なんか完全に柴田勝家「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」みたいな話になってるな…
ということで、個人がカリーをつけるという話はVR世界を現実に持ち込むことにかなり近いと思う。みんなそれぞれがなりたい姿になり、見たいものを見る。
そのうち見た目も声も性別も合成・秘匿されて、相手が人間かAIかもわからないままコミュニケーションをとる時代が来るだろうなと思っている、というかもう来てる。