円城塔の中ではかなり直球でわかりやすい部類の短編だと思った。 群の定義から始まり、理系が思わずクスッとなる数学ネタを楽しんでいたが、まさかオチで生命現象につながるとは。ラストは強烈なカタルシスがあった。
序盤の数による記憶術や数に色や現実の関係性を見出す共感覚の話は、数学と現実を紐付けることにより数学的存在と現実は相互作用・行き来できるもの、という導入だろう。 ちなみに、作中で言及される古代ギリシャ人は実在していて、逸話もちゃんとそのとおりらしい。
そんなこんなで多重共感覚により瞬間的に因数分解できてしまう数学的存在(モンスター群)である少女の話につながっていくわけなのだが、主人公たちは幸運にも少女という"関数"から"17"というインターフェースを取り出すことに成功する。
図形は色であり、色は音であり、匂いは触覚であり文字である。それらここの性質が、無理矢理乗り継ぎながら立ち位置を入れ替えすべての感覚が互いを融通しながら混淆する。彼女は視覚情報から得た紋様を「17」として認識し、17はこうして応答機械としての職務を見事に果たしている。
この17という存在に説得力を持たせるために序盤の共感覚、数と現実の風景や関係性を結び付けられるという共感覚の逸話があったわけだ。
17は、もしかして彼女の保有している化け物じみた演算能力を保持していない、何故なら17はただの計算機に過ぎず、ただの計算機は、巨大な数の因数分解を片手間で完遂することはできないからだ。
計算機をいくら積み重ねてみても、ただの計算機でしかないことは言うまでもない。無限この整数と無限この整数を足すことでは、無限を超えることは叶わない。その無限足すその無限は、やっぱりその無限のままにとどまるから。 ただし私は、計算機ではありえない。
17をはじめ、一つ一つの要素である素数は計算機であるが、計算機以上の能力はない。しかしその素数(計算機)が集まってできた少女(モンスター群)は驚異的な演算能力をもつ。 これはいわゆる「創発現象」(自律的な要素が集積し組織化することにより、個々のふるまいを凌駕する高度で複雑な秩序やシステムが生じる現象あるいは状態)のこと。 そしてこれこそが、自らが生命であることの証明にほかならない、と少女は確信する。
「数で行うことのできるものは、計算機にも実装できる。私が計算機にはできないことを実行していると感じる以上、そこには蠢く何者かがあり、まだ何かが残されている。それとも取り残されているのが、この私だ。」
一つ一つの構成要素(素数)は明確なのに、結果として生まれる少女という生命現象は説明できない。
最終的に少女は自らを"数ではないもの"で再構成し、数のない世界に飛び込む選択をするわけだけど、これは「生命現象を記述するには数学という道具では限界がある」という問題提起を含んでいるように思う。
つまりこの物語は、還元主義的な思想では生命現象は理解できませんよ、という還元主義へのアンチテーゼなのではないか。 そう考えるとものすごく統計物理屋らしさが出た作品だなと思う。